【御殿場の道:2】古代東海道
環境変化による移り変わり
※前回 【御殿場の道:1】旧鎌倉往還 からの続きです。
江戸時代の東海道と古代東海道
浮世絵に描かれた、いわゆる「東海道五十三次」の東海道は、江戸と京都を結んでいた街道である。江戸時代に五街道のひとつとして整備された。
江戸(東京)から見ると、相模(神奈川)の小田原を過ぎ箱根の山中を越えて三島に出て、沼津 - 原を経由して西に向かう。おおよそ現在の国道1号線に重なるルートが江戸時代の東海道である。
しかし古代の東海道は道筋が異なっていて、箱根ではなく足柄峠を越えるルートだった。「関東」「関西」という言葉は足柄の関の東と西という意味だと言われるが、長い間、足柄峠が東西を結ぶメインルートだった。
足柄峠を越えて(現在の)御殿場に出た古代東海道は関西方面へ進むわけだが(というか、京都が首都だったので、本来は京都を始点として語るべきだが)、どういったルートで西へ向かったのだろうか? じつは時代によって変化があった。
1.十里木ルート
最初期の東海道は、富士山と愛鷹山の間を通っていたと言われる。現在、十里木街道と呼ばれるコースにほぼ重なる。複数の古文書には、それが東海道(官道)だったことが記されている。
▼富士山と愛鷹山の間を通っていた古代東海道
昔は田子の浦から沼津にかけて広大な湿地帯が広がっており、駿河湾沿岸の通行が困難だったためである。
また、西から見ると交通上の重要拠点であった足柄峠と籠坂峠に最短ルートで向うことができる道筋であった。
2.根方ルート
ところが活火山である富士山が活動していたため、噴火や堆積物で十里木ルートが通れない時代もあった。そこで利用されたのが、愛鷹山の南側の高台を通るルートである。
いわゆる「
根方ルートの先は、箱根を越えて相模に向かうルートがとられた。
また、富士山の噴火がおさまった時期には、根方ルートの後に、沼津(大岡)の門池付近を左折・北上し御殿場を経由して足柄峠に向かうこともあった。(のちの矢倉沢往還に重なるルートである)。
しかし、門池から足柄峠経由では遠回りになるため、直線に近い箱根ルートの利用が増大した。
3.江戸時代の東海道
やがて海岸近くの水がある程度は引き、江戸幕府が街道の整備を進めたことで、海岸沿いの原 - 沼津を通り、三島を経由して箱根を越えて、小田原に抜ける江戸時代の東海道ができあがった。
その後も、足柄峠 - 竹之下 - 御殿場 - 沼津を結ぶ道筋は矢倉沢往還と呼ばれ、脇往還として利用された。