御殿場之魅力発掘隊

三島由紀夫が見た富士の裾野の夜明け

一九七〇年 富士山麓の兵舎より


「新潮」2023年5月号

「新潮」2022年5月号「川端康成没後50年」特集で、「新発見3点」のひとつとして、三島由紀夫が川端康成にあてた手紙が掲載されている。編集部によって「三島由紀夫 川端康成宛書簡 一九七〇年 富士山麓の兵舎より」と題された約千文字の手紙である。

三島由紀夫は自らが組織した「楯の会」の訓練で、たびたび御殿場の陸上自衛隊滝ヶ原駐屯地に泊まり込んで訓練をおこなっており、そこから出された手紙である。手紙の後半で御殿場での訓練のようすを記している。

三島由紀夫 川端康成宛書簡
「新潮」2023年5月号より引用

(前略)

ここ富士山の兵舎には、電話も来ず、新聞もよまず、世間のうるさい目も遮られ、空気はおいしく、景色は壮麗、生活は早寝早起、快食快眠、何一つ不足はありません。

学生たちを率ゐて朝五時の非常呼集で登山道を富士に向かって四キロほど駈足します。ラストでダッシュをかけると学生がへばります。愉快でたまりません。

そのころ夜明けの富士がバラ色になり、帰路、軍歌を歌ひながら坂道を下つて来ると、箱根から日がのぼります。富士の裾野の春や夏の夜明けの種々相を私はつぶさに見ました。

ここで四度目の春を迎へるわけです。芝居の「落人」の「アレもう夜明け」「東が白む」という文句をきくと、演習地を連想するのですから、われながらヘンな連想です。

 では又帰京後萬々
 何卒御自愛御専一の程祈上げます。          匆々
  三月五日          三島由紀夫
川端康成様

***

注:「新潮」掲載文に改行を加えました。

川端康成と三島由紀夫の往復書簡について

川端康成・三島由紀夫 往復書簡

川端康成と三島由紀夫の手紙のやりとりは「川端康成・三島由紀夫 往復書簡」として出版されている。(1997年新潮社より単行本刊、2000年新潮文庫刊。以下「文庫判往復書簡」と記載し内容を一部引用する)

「新潮」2022年5月号の表紙に「新発見」とうたわれた今回の手紙(以下、昭和45年3月5日付書簡と記載する)は、文庫判往復書簡には未収録である。新潮同号掲載の富岡幸一郎氏(文芸評論家)の解説では「今回発見された」とだけ記されている。

本当に今回あるいは近年、新たに発見された手紙なのか、はたまた単行本や文庫判の編集時すでに存在が知られていたが何らかの理由で未収録(非公開)となっていたものなのか、そのあたりの事情は不明である。

昭和45年3月5日付書簡の前半は、「豊饒の海」の第3巻「暁の寺」と第4巻「天人五衰」について述べている。三島由紀夫は日本に騒乱が起きるであろうことを予想し、現実にシンクロさせて第4巻を執筆する計画だったが、世の中は静かで、物語が計画通りに進行できなくなったことを記している。

文庫判往復書簡には昭和44年8月4日付の手紙が収録されていて、「小生が怖れるのは死ではなくて、死後の家族の名誉です。」といった記述がある。

文庫判往復書簡の巻末に佐伯彰一氏(文芸評論家、初代三島由紀夫文学館館長)と川端香男里氏(川端康成の養女の夫でロシア文学者)の対談が収録されており、文庫判往復書簡最後の三島由紀夫の手紙は昭和45年7月6日付だが、じつはその後にもう一通あったことが明かされている。

川端康成・三島由紀夫 往復書簡
新潮文庫(2022年11月20日6刷)収録対談より引用

     最後の手紙はもう一通あった

川端 ところで本当は四十五年七月六日付の手紙は、最後の手紙ではないのです。この後にもう一通受け取っているのです。(中略)

鉛筆書きの非常に乱暴な手紙です。(中略)私も内容を忘れましたが、文章の乱れがあり、これをとっておくと本人の名誉にもならないからとすぐに焼却してしまったんです。(中略)

焼却された鉛筆書きの手紙。富士の演習場から出された手紙なんです。私は今でもとっておかなくてよかったんだろうと思っています。

川端香男里氏は「私も内容を忘れましたが」と発言しているが、忘れてはいないだろう。その川端香男里は2021年(令和3年)に亡くなっているので、最後の手紙の内容は、永遠の謎となった。
「とっておかなくてよかった」としか言いようのない手紙だった、と理解するほかない。

個人的メモ:私は見た──ブレードランナーのような回顧

昭和45年3月5日付「三島由紀夫 川端康成宛書簡」を読んで、映画「ブレードランナー」(1982公開)が思い浮んだ。
「富士の裾野の春や夏の夜明けの種々相しゅじゅそうを私はつぶさに見ました。」という一文である。

「ブレードランナー」のラストで、寿命を迎えることを悟ったアンドロイドが、短い生涯の中で自分が見てきたものを語る有名なシーンがある。三島由紀夫の一文は、それと同様の「自分は○○を見た」という独白調の言葉である。(もちろん時間的に三島由紀夫が先である)

三島由紀夫の「私はつぶさに見ました」という言葉は、富士の裾野の夜明けのさまざまな様子を見た自分自身を、さらに外側から自分が見ているのである。今生の想い出、というか、過去の出来事として回顧した視点である。

***

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(ページ公開:2023/01/22 text by KTK)
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