御殿場之魅力発掘隊

三島由紀夫の『豊饒ほうじょうの海』を読んでみる

御殿場の二の岡が舞台となった小説


三島由紀夫

三島由紀夫の遺作となった長編小説『豊饒の海』全四巻のうち、第三巻『暁の寺』第二部の舞台は、御殿場の二の岡の別荘である。


三島由紀夫
1925年(大正14年) - 1970年(昭和45年)
(画像:Wikipedia)

三島由紀夫『豊饒の海』第三巻
  『あかつきの寺』第二部冒頭部分より引用

「みごとなひのき林をお造りになったのね。以前はこのへんは木一本立っていない荒地だったのに」
 と本多の新らしい隣人は言った。
 久松慶子けいこは堂々たる婦人だった。

 五十歳になんなんとしていたけれども、整形美容をしたという噂のあるその顔に、いささかはりつめすぎ光沢のよすぎる若さを持していた。吉田茂にもマッカーサー元帥にもぞんざいな口をきける、まことに例外的な日本人で、とっくの昔に離婚していた。このところ彼女の情人は、富士の裾野のキャンプに勤務するアメリカ占領軍の若い将校であったので、彼女は久しくったらかしにしていた御殿場二ノ岡の別荘に手入れをして、折々ここへあいびきのため、又、彼女のいわゆる「まった手紙の返事をゆっくり書く」ためにやって来ていた。そして本多の別荘の隣人になったのである。

 昭和二十七年の春のことで、本多は五十八歳になった。生まれてはじめて別荘を持ち、明日はその別荘びらきに、東京から客を招いてある。今日から準備のために泊りがけで来て、隣人の慶子一人にはじめてこの家と、五千つぼの庭の下検分したけんぶんをしてもらっているのである。

(中略)

富士吉田へのドライブは、しかし、楽ではなかった。須走すばしりから籠坂かごさか峠を越え、山中湖畔の旧鎌倉往還を北上するこの国道は、舗装もない険阻けんそな山道が大半で、山梨県との国境くにざかいが、籠坂の尾根を通っている。

(後略)

***

注:常用漢字や新かなづかいに書き換えた部分があります。


【引用元】『暁の寺 ──豊饒の海 第三巻──』
新潮社、昭和45年7月10日初版・昭和45年12月15日8刷

三島由紀夫『暁の寺』

文学的評価と流行作家としての人気の両面で際立つ存在だった三島由紀夫の突然の死は、人々に衝撃を与えた。

1970年(昭和45年)11月25日、自ら結成した団体「楯の会」隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)に立ち入り、東部方面総監を監禁。バルコニーから自衛隊員へ蹶起けっきを促す演説をしたのち、割腹自殺を遂げた。45歳だった。
三島由紀夫の死の謎解きは、50年以上経過した今なお続いていると言っていいだろう。

遺作となった小説『豊饒の海』は、当時すでに第1巻から第3巻までが出版されており、割腹を図ったのは第4巻の入稿日だった。そのため単に遺作ということを越えて、最期の行動を解き明かすカギと捉えられ、多様な読み方がされ、読者それぞれの解釈を生むことになった。

実際、同書は輪廻転生が描かれ、右翼運動やテロ事件も扱われており、さまざまな憶測や想像を生む余地のある作品である。

さて、『豊饒の海』と御殿場の関係であるが、第三巻『暁の寺』第二部の舞台が御殿場の二の岡である。今ここでは、文章からそのまま読み取れる直接的な事柄のみ取り上げてみよう。

五十八歳になった主人公の本多は、裁判の弁護の報酬として巨額の金を手に入れる。それによって、御殿場の二の岡に五千坪の土地を購入し別荘を建てる。
人生後半になってようやく御殿場に別荘を持てたことがステイタスとして描かれている。

本多の別荘の周辺には、政治家や有力者と繋がりのある人物や、歌人などの文化人が住んでおり、御殿場の別荘地がそういった特別な人たちがつどう場所であったことが(実際にそうだったのだが)描かれている。

富士吉田へのドライブのようすはほんの一例だが、取材が行き届いた丁寧な描写が随所で目につく。年配者は「当時はそうだった」という感慨をもって、のちの世代の人は「そういったふうだったのか」と時代の違いを感じつつ読み進むことになる内容である。

文学作品としての評価や、三島由紀夫研究の資料としての位置づけは専門家にまかせるとして、当時の御殿場や周辺地域の状況を記した資料として一読する意義のある小説だと思う。

メモ

■長編小説のため、御殿場が舞台となった『暁の寺』第二部は(前掲の単行本で)約180ぺージあります。

■『暁の寺』執筆のためだったのか? 三島由紀夫が二の岡に滞在していたと証言する方がいらっしゃるそうなので、今後話をうかがいたいです。
※現在の住所表示は「の」が付く「二の岡」です。「二岡神社」などの固有名詞では「の」が付かない名称もあります。

■自衛隊滝ヶ原駐屯地の資料館に三島由紀夫自筆の看板が展示されています。(コロナ禍等で資料館の見学には制限があります)
滝ヶ原駐屯地に盾の会が体験入隊した縁で、資料館に置かれています。写真があるはずなので、後日掲載します。

■山中湖に三島由紀夫文学館があります。
https://www.mishimayukio.jp/

個人的メモ

三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地のバルコニーで演説する姿が映像に残っているため、その後の世代にも事件は知られているが、一般の人たちはリアルタイムでどのように受け止めたのか。三島由紀夫はどのような存在だったのか。
覚えていることがあるので、当時の状況を示すエピソードとして記しておきます。

当時私(本稿著者K)は小学5年生で、休み時間終了後の授業開始時だったか、帰りの終礼開始時だったか、教室に入ってきた担任の先生(20代女性、国語や社会が専門だったと思う)がテレビニュースで知ったのだろう、三島由紀夫が割腹自殺したことを告げた。しかし皆の反応がないので、彼を知っているかたずねたところ、1クラス約35人全員、誰も三島由紀夫を知らなかった。先生は「あんたらは三島由紀夫も知らないのかね」と静岡弁であきれて言った。

自宅に帰ると夕方のテレビニュースで報道があり、両親は三島由紀夫を知っていることがわかった。母が『不道徳教育講座』の書名をあげて、意図して常識から外れたような書き方をした本であることを説明してくれたので、ウィットに富んだ(という表現は後に知ったが)作家である、というイメージを持った。
以上のような具合で、ほとんどの小学生は知らなかったが、人気作家であり文化人でありメディアの寵児であり、たいていの大人は知っている存在だった。

その後、高校一年(1975年/昭和50年)の4月に山口百恵主演の映画『潮騒』(もちろん三島由紀夫原作)が公開されヒットし、その時か後年か、文庫本を買って読んだ。読書感想文の全国コンクールの課題図書に『潮騒』が含まれていたような気もするが不確かである。

さらにその後、安部譲二の『塀の中の懲りない面々』(1986年/昭和61年刊)がベストセラーになり、若き日の安部譲二をモデルにして書かれた小説が三島由紀夫の『複雑な彼』であることを知り、『複雑な彼』や『夏子の冒険』を文庫本で読んだ。ツボを押さえた(上から目線?)面白い小説だと思った。

その後も雑誌で、文学者として、人気作家として、文化人としての三島由紀夫の記事はたびたび掲載され続けていたので、目を通すことがあった。

三島由紀夫のいわゆる「文学的な」作品の熱心な読者ではなく、大衆小説的な作品、エッセイ的な作品、雑誌の特集記事などをいくつか目を通した程度で、本格的な文学ファンの前では恥かしくてとても口にできないと思っていたが、私より年下の世代ではそこまでも読んでいない人が圧倒的に多く、相対的には知っているほうに分類される年齢になってしまった。
以上。

***

関連記事 → 三島由紀夫が見た富士の裾野の夜明け ─ 一九七〇年 富士山麓の兵舎より ─

【関連ワード】ノーベル賞,川端康成
(ページ公開:2022/03/22 text by KTK)
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