御殿場之魅力発掘隊

夏目漱石が『倫敦塔ロンドンとう』に書いた御殿場

1905年(明治38年)の小説の中の御殿場


夏目漱石

夏目漱石の小説『倫敦塔』に御殿場が登場することは、比較的よく知られている。
実際に作品を読んでみよう。


夏目漱石
1867年(慶応3)- 1916年(大正5年)
(画像:Wikipedia)

夏目漱石『倫敦塔』冒頭部分より引用

 二年の留学中ただ一度倫敦塔ロンドンとうを見物した事がある。その再び行こうと思った日もあるがやめにした。人から誘われた事もあるがことわった。一度で得た記憶を二返目へんめ打壊ぶちこわすのは惜しい、たび目にぬぐい去るのはもっとも残念だ。「塔」の見物は一度に限ると思う。

 行ったのは着後もないうちの事である。その頃は方角もよく分らんし、地理などはもとより知らん。まるで御殿場ごてんばうさぎが急に日本橋の真中まんなかほうり出されたような心持ちであった。表へ出れば人の波にさらわれるかと思い、うちに帰れば汽車が自分の部屋に衝突しはせぬかと疑い、朝夕あさゆう安き心はなかった。この響き、この群集の中に二年住んでいたらが神経の繊維せんいもついにはなべの中の麩海苔ふのりのごとくべとべとになるだろうとマクス・ノルダウの退化論を今さらのごとく大真理と思う折さえあった。(後略)


【引用元】青空文庫掲載『倫敦塔』
▼青空文庫で全文が読めます
https://www.aozora.gr.jp/cards...

夏目漱石がイギリス留学中の1900年(明治33年)に倫敦塔を訪れた体験を元に、帰国後の1905年(明治38年)に発表した小説である。
日本が欧米の文化を取り入れることに懸命であった時代。英語教育法の研究のため、文部省から命じられての留学だった。

漱石は留学前から兄弟や近親者との死別が続いたり、自身が肺結核を患ったりしたこともあって、厭世観をいだいたり神経衰弱におちいったことがあった。イギリス留学中にも精神を病んだと言われているが、大都会ロンドンで戸惑う自身を、東京の真ん中の日本橋に放り出された田舎者にたとえて「御殿場の兎」と書き記した。
御殿場市民としては、もう少しよい表現で使ってほしかったと思うが、漱石にとって、また当時の読者にとって、直截ちょくせつでわかりやすい表現だったのである。

ここで説明が必要になるのが、当時の東海道線(東海道本線)である。1889年(明治22年)に新橋駅 - 神戸駅間が開業し蒸気機関車が走ったが、国府津駅(神奈川県)- 沼津駅(静岡県)間を結ぶ現在の箱根南側(海側)のルートは存在せず、箱根北側(富士山側)をぐるっと迂回して御殿場を経由するルートが東海道線だった。現在の御殿場線は、当時は東海道線だったのである。
参照⇒御殿場線は東海道本線だった

日本の最重要幹線である東海道線が通る町(かつ、富士登山のための最寄り駅の町)になった御殿場は、その名が全国区になっていたのである。
作品中いきなり「御殿場」という地名が出てくることがそれを示している。「静岡県に御殿場という場所があり~~」といった説明は不要だった。そもそも「たとえ話」に使われること自体、説明不要であることを意味している。

もうひとつのポイントは、御殿場が兎の住みかにたとえられるような田舎だととらえられていたことである。

新橋を出発した東海道線は東京・神奈川では左手に海を見ながら海岸近くを走った。しかし、国府津から富士山方向に進路を変えて内陸に入ると景色が変わる。

国府津からしばらくは平坦な土地が続くが、山北付近から周囲は山や谷に囲まれる。地形は起伏に富み、複数のトンネルをくぐる。鉄橋の下には川が流れる。初めて訪れた人はもちろん、たびたび利用する人にとっても印象的な風景である。

御殿場駅に近づくにつれて平坦な土地が広がるが、「御殿場」イコール「山の中のトンネルや鉄橋をいくつも通ってようやくたどりつく場所」「田舎」といったイメージを乗客が持つのも当然であり、漱石が「御殿場の兎」と表現したことも理解できる。

『倫敦塔』にたとえ話として登場する御殿場は、当時の御殿場のイメージを雄弁に物語っているのである。

求む!追加情報

夏目漱石が夜行列車で新橋から関西に出かけたことや、伊豆の修善寺で転地療養したことなど、東海道線で御殿場を通過したと推察できる事実がいくつかあります。
漱石と御殿場の関わりについて、より詳しくご存知の方は、情報提供願います。

夏目漱石は東京駅を利用したか?

東京駅が開業したのは意外と遅くて1914年(大正3年)だった。それまで東海道線の起点は新橋駅(現在の汐留駅)だった。
東京駅開業2年後の1916年(大正5年)に漱石は亡くなっているので、漱石は東京駅を利用したことがないか、あるにしてもわずかだったかもしれない。

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(ページ公開:2021/01/13 text by KTK)
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