御殿場之魅力発掘隊

御殿場線は東海道本線だった

── 鉄道が御殿場にもたらしたもの ──
1889年(明治22年)から1934年(昭和9年)まで東海道本線だった

昔むかし、江戸日本橋から京都三条大橋までの約492kmを歩いて旅すると14日前後かかった。それが1889年(明治22年)に新橋 - 神戸間600.2kmが鉄道で結ばれると、汽車(蒸気機関車)で約20時間で移動可能になった。まさに近代化であり、新時代の到来だった。

この時、御殿場にとってたいへん幸運だったのは、この鉄道──のちに「東海道線」や「東海道本線」と呼ばれる──の駅(停車場)が御殿場につくられたことである。
現在の東海道線は熱海 - 函南 - 三島 - 沼津と箱根の南側(海側)を通っているが、当時は熱海 - 函南間の山に長いトンネルを掘ることが技術的に困難だった。そのため、東京から神奈川にかけて海岸沿いを走ってきた汽車は、国府津こうづ駅を出ると進路を富士山方向に変え、箱根の北側を迂回して沼津に至る、御殿場経由のルートを通ることになったのである。

▼明治~大正初期発行と思われる東海道線の路線図。国府津~御殿場~沼津ルートが描かれている。 国府津の先の小田原・熱海方面には、まだ線路が無かった。「三島」は現在の「下土狩」、「佐野」は現在の「裾野」である
明治~大正初頭頃の東海道線の路線図

それまでの御殿場(御厨みくりや地方)は、日本中の多くの地域がそうであったように地方のいち寒村にすぎなかった。富士山麓のため標高が高く寒冷で、宝永噴火の火山灰が残り土壌がやせた地区が多く、米やほかの作物も生産性が低かった。かと言って、農業以外に特筆すべき産業は無かったので現金収入を得る手段に乏しく(日本全国、多くの地域がそうだったが)金銭的に貧しかった。

▼明治末頃と思われる御殿場の絵葉書。下部に「東海道御殿場附近の富士 MT.FUJI AT GOTENBA」と説明がある。 母屋とは別に馬屋か納屋と思われる別棟があり、水車もある。比較的裕福な家と思われる。
明治時代の御殿場を写した絵葉書

東京と関西方面を結ぶ日本の最重要幹線である東海道線の駅ができたことによって、御殿場は都市部とつながり、経済や文化の窓口が開かれ、発展のための大きな手がかりを得た。

御殿場には多くのものがもたらされた。
まず、富士山の登山道の駅として、夏には各地から登山客が押し寄せるようになった。鉄道が通るまでは一面田んぼが広がっていた新橋にいはしの駅前には旅館が立ち並び、観光業が興こり、それに伴い商業も潤った。(駅ができたことで交通の中心地が旧御殿から新橋に移った)

また、別荘地としても人気を集めた。眼前にそびえる富士山と、夏の冷涼な気候から避暑地として注目され、二の岡・東山地区を中心に横浜の外国人や、東京の政財界人・文化人などが多数、御殿場に別荘を構えた。また、外国人によって、欧米の事物や習慣、近代的な施設や文化的活動なども持ち込まれた。

二の岡には、欧米人が居住するアメリカ村ができた。現在に続く御殿場産のハム(欧米の食材)、YMCA東山荘(青少年を対象とした教育研修施設)、神山復生病院(人の尊厳を重視して開設された病院)などは百年(以上)の歴史を持つ。今では当然のように感じるかもしれないが、当時は画期的だった数々のものが、他の地域にさきがけ五十年早く、あるいは百年早く御殿場に持ち込まれたのである。

東京・神奈川方面や、静岡県内でも沼津市や静岡市方面への人の移動が容易になったことで都市部に通学・通勤する者も一部に出はじめ、教育や暮らしぶりにも影響を与えた。
御殿場は明治時代から多くの「博士」を輩出しているが、高等教育を受けられる都市部への移動が容易になったことで(一部の裕福な家庭であれば)大学進学の障壁が下がったことも一因と考えられる。
また通勤も可能になり、鉄道自体も就業先となったこともあって、給与生活者、当時の言葉で言う「つとにん」も増えはじめた。

御殿場全体で見れば、ひきつづき農村地帯としての性格が強かったものの、鉄道によって変革がもたらされたのである。

1934年(昭和9年)に丹那たんなトンネルが完成すると国府津 - 沼津間が東海道線となり、御殿場経由のルートは支線の御殿場線となって今日に至っているが、鉄道が御殿場にもたらしたものは大きい。

また、数々のトピックも生まれ、夏目漱石・川端康成・三島由紀夫といった作家たちが小説で御殿場について書いているし、戦前から映画ロケがおこなわれるようになり、戦後は黒澤明監督もたびたびロケをおこない、御殿場に別荘を構えていた。
それらの話題も掘り起こして見ていこう。⇒ つづきは今後公開予定!


知っておきたい御殿場線の「常識」!?

御殿場線は昔、東海道本線だった。1889年(明治22年)開通。

丹那トンネルの開通によって支線(ローカル線)の御殿場線となった。1934年(昭和9年)に開通した丹那トンネルは16年間におよぶ難工事で、数々の逸話が残されている。

御殿場線は複線だったが、戦時中にレールが取り外されて単線になった。1943年(昭和18年)に山口県の柳井線複線化のため取り外された(横須賀線などに使われたという説もある)。複線だった時代のトンネルや鉄橋の橋脚が今も小山町や神奈川県山北町などに残されている。

御殿場線は勾配がきついため(最大25/1000の傾斜)、国産機関車では最高出力のD52が配備された。JR御殿場駅富士山口にD52の実物が展示されている。D52が御殿場線を走っていたのは1954年(昭和29年)から1968年(昭和43年)まで。

JR御殿場駅富士山口のD52

JR御殿場駅前のD52型蒸気機関車

富士岡駅には「スイッチバック」があった。沼津方面から上り勾配を登ってきた汽車が駅で停車すると、再び発車する(動き出す)ことが困難だった。そこでいったん水平な場所にバックし、そこから発車したのが御殿場線のスイッチパックである。富士岡駅と岩波駅(裾野市)には、今も線路わきに上面が水平な高台状の地形が残っている。

御殿場駅で蒸気機関車のお別れ式がおこなわれた。それまで御殿場線を蒸気機関車やディーゼル車が走っていたが1968年(昭和43年)に電化され、すべて電車に置き換わった。

童謡『汽車ポッポ』の作詞者は御殿場出身の教員で作詞家の冨原薫で、歌詞には御殿場線の車窓からの眺めが歌われている。1937年(昭和12年)〔※資料によって年が異なる〕に『兵隊さんの汽車』として最初の録音がなされ、戦後NHK紅白歌合戦で歌われるのを期に、歌詞の戦時色を無くして『汽車ポッポ』となった。


さらに詳しく知りたい人のために

「鉄道が御殿場にもたらしたもの」という観点での考察は、これまであまりおこなわれてこなかったように思うので今後の更新をお待ちいただきたい。
「御殿場線それ自体」については、多くの書籍や雑誌で取り上げられてきた。鉄道(交通)は社会的重要テーマなので調査・研究がされてきたということと、御殿場線ならではの魅力も理由である。御殿場線のプロフィール(“花形”の東海道本線からローカル線に“格下げ”になったという“悲運”のストーリー)、複線時代のトンネル・橋脚・スイッチバック跡など鉄道史的遺産が残っている、比較的遅くまで蒸気機関車が走っていた、富士山をまじかに電車に乗れる・写真が撮れるなど、鉄道ファンをひきつける要素が多く、出版物が多数ある。

御殿場周辺には国鉄職員だった方も多い。家族や知り合いなどで直接話を聞くことができる方は、ぜひ聞いておいていただきたい。貴重な証言です。
過去の書籍や雑誌類は古書店のほか、ネットオークションにも多数出品されており、個人ブログなどにも御殿場線の訪問記を書いている人は多い。「御殿場線」などのキーワードで検索してみることをおすすめする。

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ページ公開:2021/01/17 最終更新:2022/03/18