地名「御殿場」の由来
徳川家康の御殿と 中心地の移動
実在した御殿と その姿
「御殿場」という地名が徳川家康の御殿に由来することは、比較的よく知られている。
昔のことで詳細はわからないと思われがちだが、古文書などを総合すると、その姿が浮かび上がってくる。
1600年(慶長5年)関ケ原の合戦に勝利した家康は、1603年(慶長8年)に朝廷から征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開いた。1605年(慶長10年)に子の秀忠に将軍職を譲ると、1607年(慶長12年)に駿府城に移った。完全に隠居したわけではなく、大御所として朝廷や西国大名の対応をおこなうなど権力を発揮しつづけた。
老境を迎えた家康は当地
家康の死の直後に、沼津代官の長野九左衛門清定が、御厨地方の有力者であった芹澤将監(しょうげん)に御殿新町御屋敷の造営を続けるよう命じた書状の写しが残っており、同年頃には完成したらしい。
御殿は小田原藩主が巡検や鷹狩りの際に使用することがあり補修もされたが老朽化し、1686年(貞享3年)に取り壊された。
▼御殿跡地の一角に建つ吾妻神社
現在は吾妻神社付近に土塁の一部が残っており、「御殿前」「御殿うしろ」「おうまや」などの小字も伝えられている。東西50
※「令和3年度 御殿場探訪」御殿場市民交流センター 編集・発行、「御殿場デジタル資料館[御殿場の由来]御殿について」御殿場市 教育部 社会教育課 などを参照しました
なぜ、当地だったのか?
なにゆえ家康は、
何度か述べてきたように、昔の東海道は足柄峠 - 御殿場を経由していた。
※参照⇒ 【御殿場の道:1】旧鎌倉往還
※参照⇒ 【御殿場の道:2】古代東海道
東海道の箱根ルートが整備されたのは江戸時代に入ってからである。
箱根経由になってからも足柄峠 - 御殿場 - 沼津は脇往還(矢倉沢往還)として利用されており、東海道を補完する重要な街道だった。主要なルート上に御殿をつくって休憩所や保養所とすることに不思議はない。前述のように小田原藩主が武士のたしなみであった鷹狩りをおこなったという記録もあり、そういったことにも当地は適していたのだろう。
もう1点あげるならば、じつは家康の(徳川家の)御殿は、街道各所に約50ヶ所も造られていたのだ。一例が藤沢の御殿である。⇒【参照】Wikipedia 藤沢御殿
御殿場のみに注目すると「なぜ?」となるが、約50ヶ所もあったことを考えると、交通の便がよく、鷹狩りができ、富士山が眼前に迫る当地が選ばれても不思議はない。
それよりも、御殿と当地との関係で特筆すべき点は、各地に御殿は造られたものの、地名に「御殿」を含んだ地が、ほとんどないことだろう。
御殿だけでなく 町も新たにつくられた
御殿が造られた所はたくさんあったものの、地名に「御殿」と付いた所はほとんどない。なぜ御殿場(だけ)は「御殿場」という地名になったのか?
それは、当地の御殿が、ほとんど何もなかった場所に造られ、あわせて町づくりもおこなわれたためだろう。前述の、家康の死後に沼津代官が芹澤将監に御殿の造営を続けるよう命じた書状には「御殿新町御屋敷」と書かれている。「御殿新町」つまり、ほとんど何もない地に御殿を造るのに併せて、新たに町をつくったのだ。事例にあげた藤沢のように、すでに一定規模の町があれば「○○町の御殿」と呼ぶことはあっても、町の名称まで変えることは考えにくい。
何も(水田くらいしか)なかったところに御殿が造られたので、その場所自体が「御殿場」と呼ばれたわけである。
江戸時代以前は古沢や六日市場に市が立ち賑わったが、御殿造営のために土地を確保し、制約少なく事を進めるには、既存の繁華な地は不適だったのだろう。すでに開発されていた地域は避けて、南に新たな町をつくったわけである。
その後、御殿のあった地域は明治半ばまで御厨地方の中心地として賑わうことになる。
付け加えるならば、既存の繁華な場所から何もなかった場所に中心地が移動する事態が明治時代にも起きる。東海道線の開通である。明治中期まで中心地だった旧御殿ではなく、一面に水田が広がっていた南の新橋に駅(停車場)がつくられた。
その結果、以前の繁華街はいつの頃からか「旧御殿」と呼ばれるようになり、商業の中心地は新橋周辺に移動した。(御殿場駅が新橋に置かれた理由には諸説あるが)一定規模の開発をおこなおうとすると、既存の土地に手を加えるよりも、新たな土地を利用したほうが手っ取り早いことは昔も今も変わりないだろう。
さらに平成に入ると、御殿場駅東側の御殿場インターチェンジ周辺の東田中が開発され多数の商店で賑わい、今日に至っている。