御殿場之魅力発掘隊

馬車鉄道の面影を探して

1898年(明治31年)から1928年(昭和3年)まで運行

馬車道公園
▲馬車道公園 御殿場市二枚橋

JR御殿場駅付近 ~ 御殿場市役所付近 ~ 旧御殿

JR御殿場駅すぐ近くのJA御殿場新橋にいはし支店から御殿場市役所前交差点に至る道路は「馬車道ばしゃみち」と呼ばれている。沿道には「馬車道公園」という名の公園もある。明治後期から昭和初頭にかけて馬車鉄道のレールが複線で敷かれ、客車や貨車を馬がいて通った道である。

▼馬車鉄道の新橋停留場とルートが記された地図。現在の施設を追記した
(昭和初期に発行された地図)

この区間の馬車道には、旧道の風情ふぜいが残っている。幅4メートルほどの舗装道路で、自動車は交互通行できるがセンターラインは無く、広すぎず狭すぎず、両側に住宅や店舗・駐車場などが並ぶ。交通量の少ない道がゆるやかに蛇行しびていくさまはレトロな雰囲気をただよわせ、「馬車が通っていた」という(現代の我々にとっての)ファンタジーにマッチするように感じられる。

▼市立西保育園前から御殿場駅方向を望む

▼御殿場郵便局付近から御殿場駅方向を望む

市役所前交差点から先は県道394号線(旧国道246号線)となって旧御殿まで続くが、多数の自動車が行きかうセンターラインの引かれた「普通の道路」である。馬車道の雰囲気が感じられるのは、今回写真で紹介した区間である。

御殿場馬車鉄道には、明確に形のわかる遺構のようなものは残されていない。「馬車道公園」は馬車鉄道の施設とは関係はなく、昔をしのんで付けられた名称である。馬車道だったと言われる道に立ち、想像力を働かせて往時に思いをはせるとしよう。

旧御殿 ~

鉄道馬車のルートは旧御殿で富士山方向に向きを変え、仁杉・柴怒田・水野土・須走などを経由して籠坂に至る。
旧御殿からの馬車道は、住宅地の間を抜ける細い道だったり、田畑や山林のわきを通る未舗装の道だったり、部分的に不明だったりと、探索のしがいのあるルートになっている。
馬車鉄道は基本的には、元々道だったところにレールを敷いたため、その後も道として使われ、たどりやすい区間がある一方で、わからなくなっている区間も少なくない。

▼富士山に向かって直進する区間。道路わきに「馬車道」の看板が建つ
 御殿場市仁杉(JA御殿場カントリーエレベーター付近)

***

御殿場馬車鉄道は鉄道ファンや廃線マニアにはわりと知られていて、探索結果を個人ブログなどで報告している人もいる。今回は訪れやすい場所のみ紹介したが、いずれ森の中を踏み分けるようなルートも紹介してみたい。(つづく、かもしれません)

そもそも、御殿場馬車鉄道とは?

明治時代、東海道線をはじめとして蒸気機関車のための鉄道が各地に敷かれた。その駅を起点にして、さらに各所に人や物資を運ぶために、馬が牽く馬車鉄道が日本各地に誕生した。
御殿場にも1897年(明治30年)御殿場馬車鉄道株式会社が設立され、翌1898年(明治31年)には御殿場駅前の新橋停留場から旧御殿の御殿場停留場までが開通した。さらに1901年(明治34年)には、柴怒田 - 須走を経由して籠坂に至る約15.7キロメートルが開通した。

山梨県の会社が運営する馬車鉄道にも接続し、1903年(明治36年)には御殿場(当時は御厨みくりや町)から山梨県大月に至る全長約55キロメートルが馬車で結ばれた。当時は主に富士登山客や物資の輸送に利用された。

しかし、東京と山梨を結ぶ中央線の建設が進み、1902年(明治35年)に大月駅まで開通、翌1903年には甲府駅まで開通したことで利用客がそちらに流れ、御殿場馬車鉄道は打撃を受けた。その後、経営者の交代や路線の縮小など変遷があり、バスやトラックの普及もあって、1928年(昭和3年)に運行休止、1929年(昭和4年)1月に会社が解散し、御殿場馬車鉄道は消滅した。

それでも年間最大78,015人が利用した年もあり(1913年/大正2年)、一時期の交通手段として役割を担った。警笛がわりに吹くラッパの音が「テト、テト」と聞こえることから「テト馬車」とも呼ばれたという。


さらに詳しく知りたい人のために

▼御殿場市文化財のしおり第24集御殿場馬車鉄道(1987年/昭和62年発行)
御殿場市立図書館で閲覧願います。

▼Wikipediaにも説明があります

▼個人ブログなどで馬車鉄道ルートの探索結果を報告している人もいます

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ページ公開:2021/01/16 最終更新:2021/03/09(説明文を一部変更)
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