御殿場之魅力発掘隊

鮎沢川あゆざわがわ牛淵うしぶち雨乞あまごまつり

江戸時代からの伝説に由来する神事

▼鮎沢川と牛淵雨乞い祭

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まず、動画を最後までご覧ください。(5分15秒。都合により動画を再アップロードしたため以前からURLが変更になっています)

牛淵の伝説とは

富士山を源流とする鮎沢川に牛淵とよばれる一角がある。そこで毎年夏に雨乞いがおこなわれている。江戸時代からの伝説・伝承に由来するものである。
地元御殿場市深沢ふかさわの住民の話と、複数の書籍の内容を総合すると、おおむね次のような話である。

昔、村人が飼っていた牛が暴れまわり、村人たちに追われて鮎沢川の崖の上に行きついた。牛が崖の上から深いふちに転落すると激しい雷雨となり、連日連夜雨が降り続き、淵の中からは牛のうめくような音が時々聞こえてきた。
以後、水不足には、偽牛にせうし(実物にせて作った牛)を淵に投げ入れ雨乞いをすれば、雨が降ると伝えられている。

また、2020年/令和2年8月2日にりおこなわれた雨乞い祭の挨拶で、深沢区長から次のような話があった。

江戸時代末期頃まで雨乞いの神事がおこなわれていた。
しばらく途絶えたが、昭和54年(1979年)に鮎沢川漁業協同組合の組合長が深沢区に共同で神事を復活させようと呼びかけたことで、今日まで四十余年継続しておこなわれている。
元々深沢は田園が広がる地域だが、水が非常に少ない土地だった。十分な水で潤って豊作になるように、ひいては深沢の無事と繁栄を願うという気持ちを込めて、この神事が復活し継続されている。

以上が2020年/令和2年の時点で把握できた牛淵の雨乞いの概要である。

伝説や昔ばなしに“つじつま”や“信憑性しんぴょうせい”をどこまで求めるかさておき、いくつか疑問を持った人もいるかもしれない。
たとえば、

  1. 深沢には鮎沢川という比較的大きな川が流れているのに、雨乞いをする必要があったのか? 「水が非常に少ない」とは、どういうことなのか?
  2. 牛は農耕用の家畜だったので身近なものとして話に登場しても不思議はないかもしれないが、なぜ川の「淵」に関係した話なのか? 仮に創作ならば「山」でも「村のはずれ」でもよかったのではないか?

説明するまでもないことが、時代や環境、生活習慣の変化などによってわからなくなってしまうことがある。以上2点も現代人には、若干の説明が必要かもしれない。その点にふれつつ、牛淵の伝説が誕生した背景を考察してみよう。

伝説の背景1:深沢の水事情

鮎沢川が流れているのに、なぜ深沢で雨乞いをする必要があったのか?
大前提として、昔の日本において「水不足」とは、飲み水が足りないことではなくて「農作物の生育のための水」、もっといえば「稲(米)の生育のための水」の不足のことである。特に米は食料であると同時に、貨幣の役割を持つものだったので、水が足りずに米が不作となれば、食料問題はもちろん経済問題・社会問題となった。
(「稲」の実が「米」です。「はす」の根を「れんこん」と呼ぶように、植物名と食べる部分の呼び名が異なる)

稲は、田植えの準備時期以降しばらく(現在の御殿場では4月から)と、穂が出る時期(同7月中旬頃から)にもっとも水を必要とする。川の水を水田に引き入れて利用するが、深沢では鮎沢川が目の前を流れていても水位が水田よりも低いため、ポンプのような装置の無かった時代には水をくみ上げて利用することはできなかった。
鮎沢川上流で水路を分岐させて引いていたが、必要な時期には途中の水田で一斉に水を引き込むため、下流の深沢まで水が流れて来ないことがあった。必要なタイミングで十分な水を得ることができなかったのである。

昔は全国各地で水をめぐる争いである「水喧嘩みずげんか」が起きたし、水路の水を利用する権利「水利権すいりけん」はたいへん重要なもので、今でも守られている。勝手に新たな水路を作ったり、廃止したりはできない。
「雨乞い」と聞くと非科学的と思うかもしれないが、解決方法が無ければ神に願うほかない。水不足は死活問題だったからこそ、世界各地で雨乞いがおこなわれた(おこなわれている)のである。

なお、その後の鮎沢川では、藍沢あいざわの和田橋の上流に「新堰しんせぎ」と呼ばれる新たな水の取り入れ口が設けられたことで、深沢の水事情は改善し、初夏の水田は一面緑におおわれるようになっている。

▼御殿場市深沢上空から東を望む。左にJR御殿場線、中央に市道、右に鮎沢川が伸びる。右上の建物群は御殿場プレミアム・アウトレット。天気がよければ、左側画面外に富士山が見える。

伝説の背景2:なぜ「淵」なのか?

「淵」を実際に見たことのない人のため説明しておくと、川の水深が深くて水の流れがゆるやかになった場所のことである。流れがゆったりしているため、一見すると池などの溜まり水のように見えることもある。小学校にまだプールが無かった昭和40年頃までは、夏になると川の淵は、子どもたちのかっこうの泳ぎの場になった。
切り立った崖の下は、たいていそのまま水中も崖になっていて水深が深いため、淵になっていることが多い。

本題に戻り、なぜ川の「淵」なのか? 「山」や「村のはずれ」ではいけなかったのか?

まず考えられることは、伝説の元になったエピソードがあり、それが実際に川や淵での出来事だったという可能性である。しかし、伝説・伝承が事実に由来するか検証は困難なので、今ここでは別の視点から見てみよう。

川、海、湖などの水の深さを実感したことのある方や、ビデオをご覧になった方はすでに納得しているかもしれないが、深く水をたたえた淵は神秘を感じさせるものである。
牛淵でも、崖に立って下をのぞき込むと、転落しそうな恐怖感と同時に、引き込まれそうな気分におそわれる。神秘的な何かが心をひきつける。

それが空想や物語の誕生につながるのだろう。水に関係する場所には、伝説・伝承が多数存在する。御殿場市内でも神山こうやまには黄瀬川にかかる高橋に「水底の宮殿」という浦島太郎の竜宮城に似た話が伝わる。同じく黄瀬川が流れる萩蕪はぎかぶの「千軒淵せんげんぶち」は、家を千軒重ねて沈めることができるほど深いといういわれがあった(千軒淵は昭和50年頃の河川整備工事により消滅)。
イソップ童話の「金の斧、銀の斧」も川が舞台だ。海外も含め水にまつわる伝説や話は数知れない。

また牛淵では、周辺に横たわる巨大な岩や、崖、木々なども、神秘的な雰囲気を助長している。鮎沢川のすぐ横を市道が通っているが、昭和53年(1978年)頃に開通した道である。それ以前の牛淵は、細い山道を歩いてたどりつく場所だった。付近にある「もみじ橋」は、それ以前は吊り橋だった。

鮎沢川のほとんどの流域は護岸工事されているが、牛淵は深沢の要望で工事はおこなわず、両岸の岩や崖がそのまま残された。昔の面影が失われた場所が少なくないなか、今も伝説・伝承の誕生を実感できる牛淵は貴重な場所といえるだろう。

▼牛淵から鮎沢川上流を望む。護岸の石垣が途切れ、大きな自然石が横たわる。

▼〔上流から見て〕入口付近がやや深い。

▼〔下流から見て〕出口付近がもっとも深い淵になっている。

▼御殿場市古沢ふるさわ一幣司いっぺいし浅間せんげん神社の神職による神事。この年(2020年/令和2年)は新型コロナ感染症対応により、参列者を深沢区と鮎沢川漁業協働組合の役員に限定して執りおこなわれた。

▼雨乞いでは降雨を願うが「作物の生育のための雨」であり、豊作を願うものであり、ひいては地区の繁栄を祈願するものである。

▼淵の上まで牛を運ぶ。この年は張り子の牛を作ったが、これまでわらで牛を作っていた期間が長い。

▼投げ落とした牛は回収している。

アクセス

牛淵は、御殿場プレミアム・アウトレットの富士山側(西側)の市道沿い。

道路に面して牛淵の伝説の案内板が建つ。市道から入ると未舗装の道が数十メートル続き、車を一時的に停めることが可能。川や淵を見下ろしたり、階段を下りて岩を見ることができる。

※鮎沢川および牛淵は自然の川です。見物する方は事故やケガに注意し、自己責任でお願いします。


さらに詳しく知りたい人のために
── 関連書籍4冊と新たな疑問 ──

なにぶん昔の話なので、わからないことが多い。今回4冊の本を確認し、得るものが多かったのと同時に、新たな疑問も生まれた。
御殿場市立図書館所蔵の4冊と、疑問の一部を紹介しよう。

「御殿場町誌」
……1914年/大正3年頃編纂か? 手書き冊子
御厨町みくりやちょうが御殿場町に改称した1914年/大正3年頃に編纂されたと思われる手書きの冊子。「口碑伝説」のひとつ「牛淵」として紹介されている。本文わずか4行の文語調の簡潔な記述だがポイントを押さえた説明で、雨乞いにも言及している。

「新版 駿河の伝説」
……1994年/平成6年、羽衣出版発行
1943年/昭和18年発行の旧版から漢字表記などを改め、1994年/平成6年に新版として発行された本。旧版著作者/小山有言。タイトル「牛淵」として「御殿場町誌」の内容をほぼそのまま引用している。

「史話と伝説 富士山麓の巻」
……1958年/昭和33年、松尾史郎編集、松尾書店発行
昭和30年頃に富士山周辺で伝承を聞き取り調査してまとめた本。童話や物語風の読み物にまとめることを意図したのか、編者による補筆や創作ではないかと思われる表現や描写が含まれている。2段組約1ページと、分量はやや多め。
牛が落ちた淵で異変が起きた理由を説明しているが、雨乞いへの言及がない。タイトルは「牛が淵」になっている。「御殿場町誌」の内容とは、やや系統が異なる。

「御殿場の民話・伝説」文化財のしおり・第17集
……1977年/昭和52年、御殿場市文化財審議会編集、御殿場市教育委員会発行
前述の「史話と伝説 富士山麓の巻」の内容をほぼそのまま踏襲し、2段組約1ページ半で、雨乞いへの言及がない
記事タイトルは「牛ケぶちの怪」となっており、他の3冊とは異なり常用漢字の「渕」を使用している。本書が発行された昭和52年頃は今よりも常用漢字の使用が徹底していたため、表記を「渕」にしたと思われる。(※「淵」は2004年/平成16年に人名用漢字に追加され、現在は使用が許容されている)

この本の注目すべき点は、記事の後の解説文に、
(前略)昔の牛ケ渕(通称「牛渕うしぶち」ともよばれる)は(後略)
と記されていることである。つまり、元々は「うしがぶち」であり、「うしぶち」は通称だと言うのだ。令和2年現在、深沢の人々は「うしぶち」と呼んでいる。60歳男性にたずねたが、かつて年寄りからも「うしがぶち」という言葉は聞いたことがないという。またビデオの3:32付近で神官の祝詞のりとは「水の音高き御厨の深沢の里うしぶちの」と言っている。
しかし、牛ケ渕(牛ケ淵)が元の名称(正式名)であるとわざわざ解説しているので、たとえば古文書や古地図などに「牛ケ淵」という記載があるのだろうか?

また、後の2冊に雨乞いへの言及が無いのはなぜだろうか? より古い「御殿場町誌」には雨乞いの記述があるにもかかわらず。
昭和30年頃は雨乞いの神事が途絶えて久しい時期だったため、話を語った地元の人自身が雨乞いを知らなかったり、あるいは知っていても印象が薄れていて言いそびれた可能性もないとはいえないが……。

……などなど、疑問は尽きないが、今回はここまでとする。今後の調査検討課題としたい。

メモ

●動画と本稿のタイトルで、「牛淵雨乞い祭」の「祭」に「まつり」とルビをふったが、明確な決まりは無く「サイ」でもよい。耳で聞いたときに「アマゴイサイ」では意味がわかりにくく、「アマゴイまつり」のほうがわかりやすいだろうと「まつり」にした。また、「の」を加え「牛淵の雨乞い祭」でもよい。

●雨乞い祭は、地元関係者や来賓によっておこなわれている地区行事であり、現時点では観光として一般公開はされていない。

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(ページ公開:2021/03/10